ポスト喪男の杞憂

女の子にモテたいっつってんの

病院の違和感

僕が病院の違和感に気付いたのは、高校2年生のちょうど今頃の季節だった。

高校1年生の冬から始まった肺気胸により入退院を繰り返し、2度の全身麻酔による手術を行ってもなお再発する病に、次第に僕は心の柔軟性を失っていったらしい。

最初こそ、学校を休めることや、病院食の進歩や、お見舞いなどの非日常感を感じて楽しく感じてはいたものの、流石に数ヶ月も続くと入院生活の方が日常となり、学校生活と比べて変化のない生活に嫌気がさしてきた。

 

何より入院生活で嫌だったのが常に体内を異物が通っている感覚だ。肺気胸は肺に穴が空き、肺から漏れ出た空気が体内に溜まって心臓などを圧迫する病だが、基本的に自然に穴が塞がるのを待つほかない。穴が空いている間は体の中に空気が漏れ出ているので、体に管を通して空気の逃げ道を確保する必要があるワケだ。

読書をしていても勉強をしていてもゲームをしていても音楽を聴いていてもご飯を食べていても排便をしている時にすら絶えず管が肺に接触する、内臓を撫でられる感覚は人の気を滅入らせるには十分なようで、入院生活も5ヶ月を超えた頃、僕は本のページを捲るという動作も、携帯のボタンを押すという動作も何もかも嫌になってひたすら天井の壁の模様を数えていた。疲れている時に視界に入ってくるゴミのような天井の模様は、不思議なことに数える度に数が異なっていて、何回か数えては平均を求めて次のブロックへ移ることをひたすら繰り返していた。当時はただの暇つぶしくらいに考えていたけれど、今思えばストレスからくる異常行動だったと思う。

 

次第に何も考えられずになって虚空を纏い始めた頃、朝起きると突然隣のベッドが丸ごとなくなっていた。昨晩ナースコールの音と人がバタバタ駆けつける音で一度目が覚めたのを思い出した。病院では特に珍しい光景ではないので気にしていなかったが、ポッカリと空いているスペースになんとなくダメだろうな、と死の匂いを感じた。それから2日が経って、同室の老人から新聞の慶弔欄で僕の隣の人が亡くなったことを伝えられたが、なんとなくそうなるだろうと思っていたとも言えず、無感動にそれを受け止めて適当な会話をした。思い返せば仕切りのカーテンを閉め切って無言だったので長い入院生活で同室の患者と会話したのはこの時くらいだと思う。とても失礼な話だが、会話をして初めて同室の患者が生きているということに気付いた。それと同時に、久しぶりに自分が生きている人間だということにも気が付いたのだった。

 

ポッカリと空いたスペースにもすぐに新しい患者が入ってきて、バタバタと準備している音なんかを聞いている時に、不意に蝉の鳴き声が聞こえた気がした。病院内の気温は基本的に一定なので気が付かなかったが、7月に入り、外の世界は本格的な夏が始まろうとしていた。窓越しに外を見て、僕は会話したことすらない隣で亡くなった人の葬儀、夏の日差しが照らす中、喪服を着た集団、蝉の鳴き声だけが鳴いている情景を想像し、観たこともないのにいつか観た映画のワンシーンのように遠くのことに感じた。

そんな妄想をしていると、7月の光に照らされて清潔の象徴である白さを増すカーテンや、床から反射して白さが際立つ壁に僕は不意に白々しい違和感を覚えた。今までそれらと一体になっていたはずなのに今ではもう違和感しか感じなかった。よくよく考えてみれば、体調が悪くて気が滅入っている時に白い壁で囲って光で照らされるなんぞたまったものじゃない。仄暗いひんやりとした和室でポツンと置かれている方が落ち着くように思う。

夜、廊下から入ってくる少しの明かりでほんのりと白さを主張する壁なんかを見ると、壁の下は本当は真っ黒で、白骨化した死体が埋まっているんじゃないかと思うようになった。命を救うはずの機関で多くの人が死んでいることに、体を治すために心が病むことに、そういう死の匂いを白いものでゴテゴテ塗りたくって隠しているような違和感ばかりが気になった。白が怖かった。ただ、なんとなくだが、この違和感にそのまま引っ張られると生きながらにして彼岸へ行ってしまうという確信だけはあって、できる限り無視するようにした。幸いなことに次第に入院の間隔も長くなっていき、そういったことに気を取られることもなくなっていった。

 

人間の根本的な部分はよっぽどのことがない限り変わらないものだと考えている。ある程度考え方や価値観などは変わっても、日常を送っていただけで性は変わらない。スワンプマンではないが、入院生活を送る前と送った後で自分は変わったのか、気になる。自分の内面を知る者が自分しかいない以上、内面が変わったのかはもはや誰にも分からない。自分は自分でしかないし、それで何かが変わるわけでもないので、気にする意味がないと言われればそれまでだが。

 

ただ、病院の中でベッドに仰向けになって、天井の模様を数える自分の姿を想像するが、やはりあの時自分は死んでいて、白い壁の下で白骨化していたのではないかと思うのだ。

何か自分の趣味に対する唯ぼんやりした不安である。

みなさん、夏はどうお過ごしですか?僕は実家で部屋のエアコンが全然効かないうえに風通しがよくない畳の部屋なので、廊下で寝てます。フローリングだからペタっとすると冷たいし、めちゃくちゃ風通しがよいのです。廊下は神。

 

最近趣味のものを本当に使いそうなものだけ残してさっぱと売り払っている。
仕事によって割ける時間が減ってしまったとか、飽きたとか、別の趣味にお金を使うとか、いろいろな動機が考えられるが、まぁタイトルが一番の動機だと思う。

 

「ソシャゲはサービスが終了したら何も残らない」って言うけどさ、僕からしたらとてもありがたいことだよ。思うに、蒐集の要素がある趣味を止める時に物が残ると未練も残る、後悔も残る、楽しかった思い出も残る。実は一番後者がキツイ訳なんだけどもここは割愛するよ。まぁ執着してしまう訳だ。

 

執着を断ち切るには人に譲るか、売るか、或いは全部えいやと捨ててしまうかの3つなんだけども、どれも中々難しいワケですよ。ある種の「欲」が出てきてしまうんです。人間だもの。そもそも執着を簡単に断てる人は蒐集なんかしないですよ。

 

だから、まぁソシャゲなんかはある意味では優しいと僕なんかは思いますね。

 

その中でも僕は「売る」という選択肢を取りました。完全に止める訳ではないけども少しずつ減らそうと思って。もうちょっと続けたいし、趣味によってできた交友関係もあるわけだしね。人づきあいが不得手な僕にとっては貴重な交友関係です。もっとも、趣味を止めたからといって途切れる関係ではないけれども。あと「譲る」って行為は意外と悪手で、譲られた側に責任を押し付けるようなものなんだ。人から好意でもらったものを平然と捨てたり売ったりする人に譲りたくないというのもあるし、それらが出来ないような善人に譲ってもそれらが出来ない故の葛藤で苦しめてしまうし。

 

「捨てる」ことはとても惜しく感じてしまうからやっぱり「売る」選択肢が最良だと考えたんだ。売った場合は買ってくれた人が「自分がお金出して買ったもの」ってことで自由に扱えるしね。そっちの方が気楽でいいと思う。

 

それで話を戻すと言っても僕が言いたいことは完全にタイトルの通りで、少しずつ趣味から足を洗おうってことです。手を染めて足を洗うなら頭はいつ洗うのかなと少し考えるよね。

 

少しばかり自分の話をすると、僕は特に趣味と言えるようなものはない。アニメもゲームも漫画も小説もそれなりに好きだし、サーフィンもする。最近はお父さんと一緒にスノボデビューした。雪国生まれ雪国育ちなのに初めてのウィンタースポーツさ。絵を書いたりするのも良いし、音楽を聴くのも良い、登山なんかも楽しいね。小学校から10年くらいバスケをやってまぁまぁ誇れる成績も残せた。ただ、色々やっている中で一番リソースを費やしたのが今やっている趣味だった。

 

理由は特にないけど、多分話していて気楽な人が多かったんだと思う。世の中に馴染めない人、馴染めるんだけど疲れてしまう人、そんな人が多かった。僕もどちらかというとそっち側の人間だったから、気取る必要も、媚びる必要も、カッコつける必要も、なかった。恋愛につながることもなかったので、とても気が楽だった。古びた地下のゲームセンターの格ゲーの椅子に座り、タバコとホコリの混じった臭いを吸って少し落ち着くような、そんな感じだった。人は心身の状態によって落ち着くポイントが違って、明るくて綺麗なところが落ち着くのも勿論そうなんだけど、体調が悪い時なんかはその明るさや綺麗さがかえってうるさかったりするように、少し薄暗くて静かな和室にひっそりと寝ていたくなるように、僕は世の中に少し馴染めない人や場所を探していたんだと思う。


あとね、いつからかは忘れてしまったんだけども「一番長くやっているからこの趣味をやっている」という最高に皮肉な理由で趣味を続けていることに気付いたんだ。最初は好きでやってたのにね。今でも好きだけれども、このことに気付いてから、なんとなく疑問に思っちゃうんだよね。好きなのかってさ。一番長くやっているという理由が少しずつ趣味をする理由の大部分を占めてきて、自分の趣味に対する唯ぼんやりとした不安に繋がっていると僕は考えている。

 

誰もまだ趣味を止める人の心理をありのままに書いたものはない。僕は読んでくれる人に送るグダグダで拙いの日記の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思う。趣味をやっている人はTwitterなどに結婚とか、飽きとか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの趣味を止める動機を発見するであろう。しかし僕の考えによれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の趣味に対する唯ぼんやりした不安である。

三日坊主って何を供養すんの

ど~も~ぼくで~す!ぼくで~す!1人合わせてぼくで~す!ってメモ帳に書いてる人間の気持ちって分かる?僕はさっき分かったよ。思ってたよりも、いや、思ってなかったけどやっぱり虚空だよ。

 

そんなことは置いといて、誰でもすなるブログといふものを、自分もしてみむとてするなり。日本で最初のネカマは言った。僕は男だけれども。唐突だけどブログというものをやろうかと思う。続くか続かないかは僕の筆加減ですが、僕の暇つぶしに書いたもので誰かの暇をつぶせたのならば幸いです。

 

突然だけど関西弁っていいよね…めちゃくちゃキャッチャーだし、ニュアンスを伝えるのに適していて、テンポも取りやすいし、とても会話に適している方言だと思う。あと関西弁を話す女の子ってめちゃくちゃ可愛いよね。僕が可愛い関西弁の女の子を想像しているからだけれども、関西弁を話す女の子は可愛い。ありがとう関西弁。ただ、書いて伝える時には少し使いづらいけれども、それは方言全般に言えることだからまぁやむなしだね。やむなし。やむなし和也。

 

一応言っておくけれども、ここでの関西弁は特にココの地域!って限定した関西弁じゃなく、なんとなくの概念化した関西弁ということにしておくよ。そういう方面に持っていくと俚言がどうこうとか、いやあそこの地域は関西弁じゃないとか横道に逸れてしまって疲れるからね。読者の方で適当に理解してくれたらと思います。

 

まぁ関西弁の話は置いといて、今日僕が書こうと思っていることは情報化社会での姿勢についてです。メディアリテラシーとかいうヤツは横文字めんどくさいので、今日は縦文字で書いていきます。インターネットにどこでもいつでも誰とでもつながる情報化社会が高度に進んだ昨今、情報量の多さに疲れている人たちも多いと思う。

 

そういう情報量の多さに疲れそうな人たちに対して、なんとなく助けになればと思いながら書いております。「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と、ひろゆき氏がかつて言っていたことに集約されているんだけれども、インターネットの情報だけで真偽を見定めることはほぼ不可能で、自分がその情報が嘘かどうか見極める力がないと、やはり適切に使うことは難しい。情報に振り回されてしまう。自覚があればいいんだけれども、自覚がない人がかなり厄介で、自分が正しいと思っていて出来れば近寄りたくないある種の熱狂を帯びていることが多い。

 

そんで、今から大事なことを書くんだけれども、インターネット上のある情報に対する疑う姿勢として求められるのは「ホンマか?」であって「嘘やろ!」ではないということです。なんとなくのニュアンス伝わりましたか?めちゃくちゃ便利ですね、関西弁。

 

少し補足すると、多分みなさんはある程度情報の選択は無意識のうちに出来ているんですよ。インターネット上の目に見えている情報全てをいちいち疑う必要はなくて、気になって自分が必要な情報の真偽を見分ければいい訳です。これは、新聞を読む人が端から端まで全部読むのではなく、自分が読みたいところを読んでいるところを想像していただければ分かりやすいかと思います。

 

それで自分が必要な情報の真偽を見分ける時に「嘘やろ!」と全く信じないのはあまりにお粗末すぎます。一部本当のことが書かれている可能性もあるし、もしかしたら全部本当のことかもしれない。「疑う」というどっちつかずな立場になるべき時に既にどちらかについてしまうと一方の立場からの情報しか信じられなくなります。

 

一方「ホンマか?」という言葉、情報を少し受け入れつつも疑念の余地を残しているニュアンスを感じませんか?僕は更にその後にその情報が本当か自分で調べているところまでなんとなく想像がつきます。情報をそのまま一方的に受け入れるのではなく、自分で調べてみて判断しましょう。勿論、判断する立場は中立でなければいけません。

 

自分で書いててうわ、普通!ってなってるけど、情報を疑う時に「ホンマか?」って少しでも思ってくれたら幸いです。