ポスト喪男の杞憂

女の子にモテたいっつってんの

職業詐称ゲームのススメ~導入編~

 気付けばこのブログも放置して1年が経った。そもそも暇つぶしで書くかというノリの一手で始めたことであり、怠惰の努力が実った結果が放置である。まぁどうせ読む人なんか居ないから書かなくてもいいだろうという卑屈な肯定が勝ったというのもある。色々ある。

 

 Twitterなんかも「一日一回はつぶやく」というマイルールもどこ吹く風、最近はなんとなく開くことすら少し億劫に感じる自分が居る。中退の時期かもしれない。

 

 「なんとなく」というのがまぁ厄介で、どうにも止めがたい。小学生の時の秘密基地なんかもなんとなく行かなくなったりしてしまうものだ。

 

 脱線したが、今回は個人的にちょくちょくやっている職業詐称ゲームについて書こうと思うが、やる場合には完全に自己責任ということにしてほしい。

 

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【職業詐称ゲームとは】

 

①自分の職業を詐称して飲み会に参加して乗り切る

 

 これだけ。マジでこれだけ。

 

 ただ、下記のことを守ると円滑にゲームを進められる。

 

・対戦相手が自分の本当の職業をしらないこと


・自分の仲間にはこのゲームをすることを伝えておく(足引っ張るのが好きなつまらない仲間が居る時は無理せず止める。どうせつまらない飲み会になって無駄だからさっさと帰って養命酒でも飲んだ方が建設的だ)


・ちゃんと事前にその職業について調べておく


・対戦相手を見て一瞬で複数の選択肢の中から職業を決める(一つに絞ると相手が本職だった場合ヤバいのでマイナーな職業とか複数用意しよう)

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 一応言っておくけど本当に出会いを求めているならオススメしない。まぁ対戦相手も嘘をついていることが多いから平等にするためになんらかの嘘で対抗するのはアリかもしれない。

 

 対戦相手は往々にして恋人がいたり、子供が居たり、友人の元恋人でこっち側のことを知ってるクセに知らないフリしたり、職業を偽ったりするんだ。許せねぇ。こっちだけが本当の職業を言ってリスクを背負う必要はない。見せつけろ詐称トーク。今宵職業を偽ってやるぜ。

 

 僕はあんまり他人に興味はないけど人間には興味があるので、別にお持ち帰りしようとかそういう気持ちはないし、飲み会が終わった後も「今日はありがとうございました~」くらい連絡するだけで終わらせるので特にデメリットはない。別に出会いを求めている訳ではなく、気楽な飲み会の席がそこそこ好きだから数合わせでもなんでもガバガバついて行く感じだ。

 

 わかりやすく言い換えると「君のカラダが目当てじゃなく、君の精神が目当てだったのさ…!!」という感じである。どこぞの人間好きな悪魔が言い出しそうなセリフである。もっとオデに人間を理解させてぐでぇ…

 

 とりあえずルールの説明はしたから次は実際のレポを軽く書いていきたいと思う。

 

 次いつになるかは知らんけど…

女子高生と働いたというお話

半年前くらいのことでしょうか。仕事で15歳の女子高生と3日間だけ一緒に働くことになりました。自己紹介をして「何歳ですか?」と聞かれて「25歳だよ」と答えると「10歳、違いますね」と言われて膝から崩れ落ちるなどしました。10歳も離れている彼女に何を話していいか困ってしまいましたが、沈黙にも耐えられなかったので他愛もない会話をダラダラとしたことを覚えております。

まったくお客さんが来なくて1日目が終わり、2日目も全くお客さんが来なくて暇を持て余しておりました。休日出勤ですが、座っているだけでお金が貰えるなんてなんていい仕事だろうと思いつつ彼女と他愛ない会話をダラダラしていました。今時の女子高生にしては珍しく?(今時の女子高生がよくわからないのでイメージですが)スマフォを弄る様子もなく、彼女自身の高校生活とかも話してくれました。高校生活から離れて久しいので、どこか遠くの国のことのように感じながら僕もうんうん聞いておりました。

最終日になっても白昼夢ではないかと疑うくらいお客さんは来なくて彼女と二人だけの時間は続きます。とても長かったように感じますが思い返すと一瞬でした。人生も同じようなものです。

しかしながら3日も一緒に居ると話すことなんてほぼありません。ここでふと寝たふりをしたらどういう反応をするかな?と好奇心に負け、タイミングを見て寝たふりをしました。仕事中に。彼女は僕が寝たことに気付いて呼びかけます「25歳、起きろ」と(何故か彼女は僕のことを名前ではなく年齢で呼びます)ここで起きたら負けです。無視をしました。ふと顔に何か近づく感じがしました。これはマズイ!と起きるか寝たふりを続けるか悩んで起きようとした瞬間「パチン!」破裂音、手を叩く音です。ビックリして起きて彼女を見ました。私やってませんけど?とでも言うように知らんぷりをしておりますが、若干ニヤけています。「キミしか居ないぞ」と指摘。彼女「夢でも見ていたんじゃないですか?ぐっすり眠っていましたよ?」と笑う。年相応の少女の笑顔でした。ここ3日間で初めて見た表情でした。

結局3日間でお客さんは1人のみ、しかも10分も居ませんでした。休日出勤でしたが、貴重な休日を出勤で潰されたという感覚すらなく淡々と撤収の作業をしました。彼女ともまた明日一緒に働くんじゃないかってくらい何事もなくサラっとバイバイしました。

帰宅して3日間のことを思い出してふわふわした浮遊感とほんの少しの喪失感に包まれてあぁ恋をしてたんだなって気付きました。でも不思議と自分のことじゃないような気がするんです。

現在の自分ではなく、置いてきた遠い過去の高校生の自分が恋をしていたのでしょう。

彼女のことはよくわかりません。生クリームが苦手なことくらいしか覚えていません。会おうとも特に思わないし、多分もう会うこともないでしょうけど、いい夢を見せてもらった気がします。ありがとうございました。

2017日目のTwitter

光陰矢のごとし。2017年がスタートしたと思ったら明日からもう3月になるらしい。恐ろしくて震えちまうね。

 

面白い偶然で「うーみの喪クズ」というTwitterのアカウントは今日で2017日目になるらしい。この約5年6ヶ月という月日をTwitterに費やして、節目っぽい今日になんとなくこれまでのツイ人生を振り返ってみようと思う。

 

基本的に日常を切り取ったネタツイートや思ったことをただ流すアカウントで、中の人のアレコレなどは特に興味ないだろうけれども暇つぶしにでも読んでくれると嬉しい。

 

このアカウントは大学生時代に入院中で暇だったことから始まった。当時はリアルアカウントしか持ってなかったんだけど、音楽とか本とかそれ以外の趣味のことをツイートして同じような趣味の友達をつくりたいと思って作成したアカウントだったんだ。

 

ただ特にフォローしたい相手が居なかったのでたまたま2chで見かけた「お互いフォローしあおうぜ」みたいなスレから何人かフォローしてしばらく日常のツイートなどをしていた。遠くの知らない誰かの日常を覗くのは楽しかったけれども、本や音楽やその他の趣味の話をしても特に反応がないし次第に飽きてきた。

 

よく考えてみたらネット上の他人に興味ないし反応がないのが普通である。僕がイケメンや美少女とかだったら話は違っただろうけれども、平々凡々で特にネタにするような容姿でもなかった。残念ながら。

 

そこからぼんやりと「興味のない他人の日常ツイート見ても面白くないよな」と考え、どうせなら面白いツイートを見てもらおうと思って色々試したけど思ったことや身の周りであった面白いことを1日に数回ツイートして終わる今のスタイルに落ち着き、気が付けば誰とも絡まずネットの海を漂うキャラがないbotのような概念に成り果ててしまった。

 

孤独は苦にならないし、ツイピエロになるってのもまぁ別に悪くない。ネットの海で海月みたいに概念化してプカプカするのは当初の目的とは外れてるけど満足している。元々人間的な魅力がある訳ではないし、虚空とも仲が良いからまぁ落ち着くところに落ち着いた感じがするのだ。

 

そんなこんなで虚空なアカウントで絡みがないのにおかしな話だけれど、いつもふぁぼしてくれる人とかフォローしてTL上に居る人に僕はぼんやりと親しみを感じていて、ふと見た時にツイートの更新が止まっていたりアカウントが消されていたりするとひどく悲しくなるんだ。様々な理由があるんだろうし、それを僕がどうこう言う権利は何もないんだけどやはり悲しい。

 

多分生きているだろうから、いつか僕のことをふと思い出してTwitterで見つけて「相変わらず同じようなツイートしてるな」って少しでも笑ってくれたらいいかな。

 

多分Twitterを止める時はぼんやりとした感じで止めると思う。将来に対する漠然とした不安のような、ふと踏み出すような感覚だと思う。その時が来るまで、僕はもう少しツイピエロを続けたいと思う。

こんなことがあった【おじいちゃんの生態】

こんなことがあった。

 

福祉関係の仕事に就いた友人から「おばあちゃんは集まった時に放っておくと円の形になってお話しするが、おじいちゃんはちょっと間隔を空けて横一列に並んでボソボソとお話する」という話を聞いた。

 

間隔を空けるのはトイレでの風景を思い出すとなんとなく納得がいくが、真っ正面よりも横に居た方が話しやすいのは居酒屋での記憶によるものなのか。ならば昨今のあまり飲み会に行かないらしい若者などは、おじいちゃんになった時にどう話すのかと想像してしまった。

 

経験至上主義とか疲れませんか。

まぁ三日坊主でもダラダラ続ければいいかと思ったらいつの間にか前回のブログより三十日経っていたらしく、とんだ生臭坊主だと我ながら呆れるなど。お盆休みをずらして6日間東京に滞在しつつ遊んだことを除けば特筆すべきこともなく、たまに来る台風の対応などをしてれば気付けば夏も終わっていた。サイコーの夏isどこ。

 

今回はリハビリも兼ねて軽めの思ったことなどを書きたいと思う。

 

僕はまぁ特徴もなければコレと言った才能もなく日々をダラダラと過ごすのみの生きながらにして死んでいるような普通の大人だと思っているけれど、それでも時々世間とズレを感じることがあって、この前感じたのは「経験の数を重視する」ってところなんですよね。分かりやすい例を挙げれば、恋愛に関して今までの恋人の数や経験人数をそのまままの戦闘力に変換して高い方が偉い、みたいな風潮があるように思えてならない。

 

百歩譲って多種多様な人と恋愛関係になることにより、異性、ひいては人間に対しての鑑識眼や理解力、対応力の向上につながるとしよう。ただ、僕が見る限りでは残念ながら多種多様な人と恋愛関係になる人はほんの一握りで、大抵の人は同じような種類の人と何度も恋愛関係になっているだけである。つまり、多くの恋愛に関して得られるものは大体同じような経験のみで、特定の種類の異性に対する鑑識眼や理解力、対応力であってそれを全部の恋愛にそっくりそのまま当てはめることは到底無理な話だ。

 

恋愛に関して言えば、世間の人は恋愛を経験すると、面白いことに自分の経験で全てを語ろうとする。「経験は質と数どちらも兼ね備えてこそ価値があり、質の低いものを数多く経験するのはただの徒労であり、要領の悪さを露呈させているに過ぎない」と思うけど、世間の恋愛に関しての考えは今までの恋人の数や経験人数をそのままま戦闘力に変換して高い方が勝ちで価値があるらしい。

 

恋愛以外にも僕は失敗とかの経験しなくてもよさそうな経験はしなくてもいいと思っているんだけど、世間では失敗の経験を多く積んだ方がいい、みたいな謎の美徳がある気がしてならない。

 

経験至上主義に侵された謎の美徳感は本当に気持ち悪くて、失敗しても「失敗の経験を得られた」なんて貧乏くさい評価で励まそうとする。もちろん理論上は上手くいっても、実際にやってみると思わぬイレギュラーによって失敗したり、対応しなければいけない状況が出てくるとは思うが、やらなくても分かるような失敗に飛び込むことは正直に申すと頭が悪いとしかいいようがないと思う。

 

まぁ上記のような経験至上主義に染まっていない同志諸君も居ることは想像できるが、依然として厳しい戦況に立たされていることには変わりない。

「幅員」の「員」ってよォ~どういう意味なんだ?アァン?

今朝車の運転をしていて看板に書いてあった「幅員」という文字が気になった。いつもは特に気にすることはなかったが、お盆中の仕事のダルさによってか、どうでもいいハズの「幅員」が気になってしまった。「幅」は分かるけど「員」ってなんとなく不自然な感じがしてこない?人員、会社員、議員…なんとなく数量を表す漢字っぽいけど、漢字同士を組み合わせると幅の数量となってしまってしっくりこない。どちらかというと長さだと僕は思う。

 

気になる気持ちが段々と大きくなって今日はお盆休みの電話番のみで午前中あまりに暇すぎて何となく調べた。とは言っても職場なので情報源はほぼインターネットであるから、情報の信憑性については保証しかねる。ただまぁなんとなく自分の中で納得したところはあるから小学生の自由研究を眺めるみたいなテンションで読んでくれれば嬉しい。

 

「員」という字には「人の数。また、一定のわくの中にはいる人。 まるい物。転じて、個体をなす物を数える単位。 まわり。幅の広さ。 まる。まるい」という意味があるわけだけれど、成り立ち的には部首である「口」と「鼎」の省略形である「貝」が組み合わさって出来た漢字であるそうだ。

 

「口」を解説するとコレは勿論クチの象形文字で、そこから派生して単純に形が似ている「穴や丸」という意味と基本的に人間にはクチは1つしかないので「モノを数える単位」としての意味ができた。前者については「入り口」で後者については「人口」という例えを出せば分かりやすいと思う。あとはまぁ「クチで説得する」ことを「口説く」と書くように、道具というか手段みたいな意味もある。

 

次に「鼎(カナエ)」という字だが、これは三本足で耳(取っ手)がある土器・青銅器の象形文字で、元々は調理器具や容れ物であった実用的なものが祭事などに使われるようになり、そこから精巧に作られたものは権力の象徴となったようだ。意味としては「容れ物、枠、三、権力の象徴」で、「三」は三本足であることから三人が向かい合ってすわることを「鼎座」というようなところなどで残っている。あとはまぁ「権力の象徴」という意味から「鼎の軽重を問う」という成句もあるようだけれど、まぁほとんどの人は使わないし知らないと思う。基本的には容れ物や枠のような意味で漢字に組み込まれることが多いようだ。

 

それで、この「鼎」という字の省略形が「貝」となっている。もちろん「貝」は生物とか貝殻的な意味もあって、その場合は古代に貴重な貝が貨幣の代わりの役割を果たしたことから「財」的な意味もある。財にも「貝」という字が使われているね。ややこしい話だけど、今回の「員」の中の「貝」は枠や容れ物を表す鼎という字の省略形ということらしい。

 

つまり「員」というのは「丸い・モノを数える単位(数量)」的な意味の「口」という字と「容れ物・枠」的な意味の「鼎」という字が組み合わさって出来た漢字であるから、最初に書いたような「人の数。また、一定のわくの中にはいる人。 まるい物。転じて、個体をなす物を数える単位。 まわり。幅の広さ。 まる。まるい」という意味は適切であるようだ。

 

僕の考えでは「幅の広さ」という意味はおそらくだが、「ある一定の枠に収められた幅の広さ」を言うのだろう。イメージとしては丸い口の鼎をちょうど上から見下ろして、口の広さを幅の広さと捉えたのではないかと思う。

 

上記のことから、僕は道路・橋・船などの「枠」があるものの幅を表すのに「幅員」という言葉を用いるのは適切であるのかと職場で膝を打ったのだった。

普通に恋人ができるって何さ。

恋は盲目になるらしい。恋愛は盲目、とは聞いたことがないのでおそらく「恋」こそが盲目の性質を孕んでいるのだろう。おそらくだが、恋とは恋愛における引っかかりの部分で、恋愛モードのスイッチを入れる仕組みなんだと思う。スイッチを入れた後に適切な愛のフォローがないと恋愛にならず、恋は盲目だった、とオチがつくワケだ。まぁ世の中にはスイッチを入れるのだけはうまい輩というのが居て、それに引っかかった人については恋は盲目以前にもうちょっと人を見る目を養ってほしいものだけどもね。

 

まぁここで恋と愛と恋愛の定義を決めることはしないで、読者で適当に決めてくれたらいいと思う。僕も何となくで書くから、何となく読んでほしい。疲れちゃうから。

 

世の中の恋愛をしている人たちなんかを見ると、何でも特別なことのように感じているが、他人から見れば普通のことしか起きていないということが多い気がする。恋人たちに訪れる不幸な結末も、周りからすればなんとなく推察できていたが、近ければ気を遣い、遠ければ関係ないと口には出していなかっただけだと思うよ。わざわざ馬に轢かれにいくような物好きも居ないしね。これは盲目ではなく、なんとなく酔っている感覚に近い気がする。もちろん醒めない酔いはないように、その恋愛の酔いもいつかは醒めてしまう。

 

ただ、盲目になったからと言って全部ダメということはなくて、今後良好な関係を築いていくためには最初は盲目くらいでちょうどいいと思う。導入で恋愛のスイッチを入れておかないとメリハリがなくなるためだ。それと酔うこともメリハリをつけるために大事なことだけれど、悪い酔い方をすると醒めた時が大変になるってだけだ。

 

続きそうなカップルというのは、相手の好きなところを聞いた反応で分かる。「ココとココとココ!」と相手の好きなところを限定して即答するカップルは基本的に長続きしない。何故なら限定してスグに挙げたところは恋人の明確な判断基準になっていて、現時点での恋人じゃないとダメな理由にはならないからだ。もし仮にその基準に更に合致する異性が現れた場合、今の彼氏と付き合い続けるだろうか、付き合い続けたとして付き合う理由が惰性にならないか、どうも疑わしい。

 

逆に「よく分からないけどなんとなく好き」と答えるカップルの方が長続きする。具体性を欠くことで、言葉に出来ない現在の恋人にしかない魅力に惹かれていることを示しているからだ。

 

上記の現象については、好きと嫌いの性質に起因すると僕は考える。好きの性質は面で拡散的であるのに対して、嫌いの性質は点で収束的である。好きは様々な「好き」を飲み込んでいって最終的にぼんやりと「言い尽くせないけど全部好き」となり、嫌いは様々な「嫌い」が独立しハッキリと「ココが嫌い」となる。これは、飲み会の席などで評判がいい人の話題などは「いい人だよね」の一言で終わるのに対し、評判がわるい人なんかは「あの人はこういうことをしていたし、ココが悪い」という話題が続いていくことを想像すれば分かりやすいと思う。嫌いという性質は具体的でハッキリと形を持っていて分かりやすいので共有できる話題として盛り上がるワケだ。

 

では好きならば具体的なハッキリとした話ができないかと言われるとそうでもなくて、抽象的な好きの中から具体的な好きな部分を掘り起こす作業をすれば可能となる。ただ、その場合は相手もある程度興味を持っていないと盛り上がりに欠けてしまうけどね。お互いが興味を持った好きを掘り起こして話すと、具体的な好きを掘り起こす効率が単純に2倍になるからそういう意味ではとても楽しいし、嫌いで盛り上がるよりは精神的に健全な気がする。

 

つまり、恋人の好きなところを限定して即答できるというのは、恋人の判断基準を提示しているか、ちゃんと具体的な好きな部分を掘り起こしているかのどちらかなのだ。恋人の判断基準は嫌いに裏返る可能性も孕んでいて、好きなところだった「優しい」も「優しすぎ」に裏返ったりすることもある。また、好きだったところがより基準に沿う恋人へ乗り換えられる理由になってしまう皮肉な結果になってしまうこともあるのだ。あくまで判断基準なので好きの理由としては脆く、現時点で基準に一番近い人というだけである。

 

だから、私見ではあるが恋愛に関しては最初は盲目でもいいので「よく分からないけど好き」というスタンスで、酔いから少し醒めたしまった時に冷静な目で抽象的だった好きの中から具体的な好きを掘り起こす作業をすることがベストであると思う。その掘り起こす作業中に相手の嫌いな部分を見つけてしまうかもしれないけれど、全体としては好きな部分の方が強いからよく分からないけど好きとなっていることは覚えていてほしい。 


世の中の人は「普通に恋人は出来る」と言い、普通に恋人をつくり、普通の恋愛をして、それで恋愛のことが分かった気がしているように振る舞い、経験から恋愛を語る。だが、恋愛について、恋愛自体について、人の好き嫌いについて、考えている人は多くないように思う。確かに世の中には様々な恋愛の形態が存在していて、ひとつとして全く同じ恋愛はないので、恋愛や好き嫌いについて別に考えなくてもいいのかもしれない。だが、僕が思うに、世の中に存在する多くの恋愛はどれも大きく変わっていなくて、その相手じゃないといけない理由もなくて、ただ同じような仕掛けがあるようにしか思えないのだ。